偶蹄目シカ科ヘラジカ属に分類される世界最大のシカ、それが「ヘラジカ」です。
ヘラジカ属はヘラジカのみでその一属を構成し、他のシカ科の仲間とはその巨大さから大きく一線を画します。
ヘラジカに次ぎ巨体を誇るのが「アメリカアカシカ」と呼ばれるシカ科の仲間ですが、体重ですら4倍もの差があります。
偶蹄類に着目しても、最大級の個体はウシ科の仲間「バイソン属」と同様の体重・体高を持ち、シカ科の仲間としては異例の大きさです。
各大陸の北方に亜種が生息しており、人間の進出に連れ主に交通事故死が絶えません。ノルウェーには「ヘラジカ注意」の交通標識があるほどです。
今回はこの世界最大のシカ「ヘラジカ」の生息状況に着目し、ご説明していきます。
「ヘラジカ」とは
ヘラジカは正確には哺乳綱偶蹄目シカ科オジロジカ亜科ヘラジカ属に分類される哺乳類です。
ヘラジカは和名であり、漢字表記は「箆鹿」と表記します。その巨大な角を「ヘラ」に見立てて命名されました。オオジカという別称も存在します。
オス個体は顎から喉にかけて「肉錘」と呼ばれる、垂れ下がった皮膚を持つのも特徴的です。
生息地により多種多様な俗名が混在し、複雑化しているのも本種の特徴です。
北米なまりの英語では「ムース(moose)」と呼ばれ、イギリス英語ではユーラシア大陸の亜種群を「エルク(elk)」と呼びます。
学名はAlces alcesで「エルク」「alces」と共にゲルマン語由来と考えられています。
本来学名はラテン語が用いられるのが通例で、しかも英語なのにゲルマン…つまりドイツ語由来の単語で学名の経緯も定かではなく、実にややこしい呼称が世界各地で混在しています。
しかも北アメリカではアメリカアカシカが「エルク」と呼ばれるまでに至り、国際的にヘラジカは学名Alces alcesでないと一切通じません。
原因はその姿のインパクトに他ありません。
以降「ヘラジカ」と記述しますが、ヘラジカは記録上の最大個体はゆうに1tを超える1,120㎏です。
体長は3.2m、体高は2.3mをはるかに超え成人男性約2人分に匹敵します。
その威風堂々とした佇まいから、地域により神格化する傾向があり様々な名前がつくこととなりました。
その昔旧ソビエト連邦で「ヘラジカの家畜化計画」プロジェクトがあり、シベリアの特に人懐っこい個体を厳選し飼育していました。
残念ながら当時は商業化の波に乗れず、計画は頓挫します。
同じ巨大草食動物であるゾウは群れを作り集団生活を営みますが、ヘラジカは繁殖期以外ほぼ単独行動であり、家畜化するには広大な面積もネックとなったのです。
ただ旧ソ連の試みはその後のヘラジカ生態研究・保護の基礎となり、学術研究者達に大きな影響を与えました。
ヘラジカは飼育下での長寿記録は27年です。
野生下での平均寿命は15~20年ということが追跡調査により判明しています。
他の大方の哺乳類と同じくメスは一回り小型であり、特徴的なヘラ状の角も持たないので判別は容易です。
オスの角は他のシカ属のように枝分かれしておらず、巨大な面積を持つ扁平型でやや先方が錐もみ状になる程度です。
その角は平均2mになるまで伸び続けます。唯一シカ科の哺乳類と共通するのは、繁殖期におけるメスの奪い合い・縄張り争いなどが一段落すると新陳代謝により根元からその角が呆気なく外れてしまう所でしょう。
オスのヘラジカは毎年春から夏にかけてその角を伸長させます。
角は頭蓋骨の延長であり初期はシカ科の動物と同じく薄い皮膜に覆われますが、あっという間に皮膜を突き破り、物凄いスピードで成長していきます。
秋口に角は完全に伸び切り、12月~翌年1月に角を落とすというサイクルを繰り返します。
食性は完全草食性で高さのある草や低木を好みます。
これは一本の角が実に18kg以上もあり、その重さで頭を下げにくいという単純な理由からです。
冬季には妥協し底面のコケ類等も摂食しますが、水面が氷解する季節には湿地帯や水辺に集まり、水草などを主食とします。
意外ですが泳ぎがかなりうまく、数kmもの長距離を遊泳し水深5m以上の深さに30秒以上とどまることが可能です。
地上ではかなりの俊足で瞬間的には時速50km、平均でも時速30kmは維持できる脚力を併せ持ちます。
繁殖期のメスをめぐる争いは、その巨体もあいまり、かなり激しいものです。
繁殖自体は非常に淡白で、交尾を終えた両個体は途端に無関心になってしまいます。
メスは春先に約14~16kgもの重さの子供を1~2頭産みます。子供の成長は早く、生後間もなく人間以上の速さで走ることができ、一年で成熟し子孫を残すことが可能となります。
「ヘラジカ」の分布・生息地
ホッキョクグマなどでよく言われる“ベルクマンの法則=※恒温動物は寒冷地帯に行けば行くほど巨大化するという説”という学説があります。
シカ科の最大生物のヘラジカも例外なくこの法則に沿い、ユーラシア大陸最北部・北方ロシア大陸シベリア地方・北欧三国(デンマーク・ノルウェー・スウェーデン)・フィンランド・北アメリカ大陸・アラスカ州など各大陸の北限で暮らします。
この他にも中国東北部・バルト三国(エストニア・ラトビア・リトアニア)・カナダにも生息し、その分布域はかなりの広域に及びます。
比較的温暖な春から夏にかけては15℃を上回らない高地に移動し、森林の他に水辺や湿地帯に定住する傾向があります。
前述の通り潜水が得意であり、水中では巨体の自重も浮力により苦にならないので、水草を主食とするためです。
水面が凍結する秋季から冬季は針葉樹林や混合樹林等の森林地帯に身を置きます。
この様にヘラジカは季節に合わせ、柔軟にその生息地を変えることが可能です。
加えてヘラジカは低気温・高湿度の環境を好みます。
生息地により夏場は標高1700mの高地やツンドラ気候などの極寒の地に移動する個体群も広く知れ渡っており、降雪が始まると高地から平野部へと集まります。
低地・高地の移動のサイクルを通年繰り返すのです。
その大きさから勘違いされがちですが、ヘラジカは被捕食者です。
生息地ごとの大型肉食獣やクマのような雑食獣に襲われることも度々です。
北アメリカ大陸のヘラジカ個体群の天敵は「クマ」です。
例を挙げるとグリズリーやアメリカクロクマなどが最たるもので、追跡調査では産まれた子供の実に34%がクマの餌食となっています。
他に生息・分布域が重なる天敵としてピューマ・トラ・クズリ・オオカミなども最たる天敵となります。
ノルウェーでは林業従事者の植えた木々を片端から食してしまい、害獣として忌み嫌われています。
ノルウェーではヘラジカは厳重に保護されており、狩猟許可がおりることは一切ありません。
その代わりに国の財政から食害分の損失が補填されるという、実に珍しい施策を取っています。
「ヘラジカ」が絶滅危惧種となった理由
ヘラジカのIUCNレッドリストは2021年現在「LC = Least Concern」表記。つまり絶滅という点では「低度懸念」であり、リストランクも最下位です。
これは国内種の「ニホンジカ」と同等の評価です。
つまり個体数は十分野生下に存在し、絶滅の危機は最も低いと言えるでしょう。
更に低度懸念の但し書きで(増加)と続きます。実は野生個体は増加傾向にあります。
これは妊娠期間の長さ・産出個体数・成熟年齢が際立って長い動物では稀なケースでしょう。
現在、北アメリカ大陸には約50~100万頭、EU諸国には50万頭ほどのヘラジカが生息していると言われています。
ただ過去19世紀後半から20世紀初頭にかけ、各大陸の個体が狩猟の標的となっていました。
そのため著しく個体数が減少した歴史があります。
ヘラジカの肉はたいへん美味であり、狩猟者の格好のターゲットとなったのです。
その反省も踏まえ、各国の積極的な保護で個体数は増加し続けています。
唯一その個体群を著しく減らしているのが、アメリカ北部の各州です。
例を挙げるとミシガン州では僅か500頭にまで減り続け、州をあげてその保護に取り組んでいます。
もう一つ深刻な問題は、生息地である森林の伐採です。宅地造成や道路の開通などで木々を切り倒してしまう。
これはヘラジカにとって致命的です。
なぜなら植物の成長は非常に遅く、野生のヘラジカが生き残るには広大な餌となる森林地帯が必要不可欠です。
近年新たに問題視されているのが「地球温暖化」です。
ヘラジカは16℃以下の寒冷地が生きていく上で必要となります。
温暖化により徐々に北方に追いやられるということは、住み慣れた土地を離れることと同義です。
徐々に餌となる樹木も減っていくことになります。
現在は世界各国に十分な頭数が生息していますが、これらを踏まえるといつ減少傾向に向かってもおかしくない動物なのです。
更に批判を浴びているのが、企業経営者などの富裕層による「トロフィーハンティング」です。
シカの剥製の首が壁の額縁からニョッキリ突き出ている…そんなオブジェを洋画のワンシーンなどで見たことはありませんか。
あれが俗に言う「トロフィーハンティング」の実態です。
この様に人間の私利私欲においても、そのインパクトからヘラジカは好まれがちで、犠牲となっているのです。
「ヘラジカ」の保護の取り組み
ヘラジカの天敵はクマの仲間・ピューマ・クズリなどと紹介しましたが、一番の天敵は人間のハンターです。
既に述べましたがヘラジカ肉は非常に美味として知られており、狩猟者によるハンティングが問題化しています。
ヨーロッパ北部の個体群はそれぞれの国により秩序良く保護されていますが、アメリカ北部では州ごとに保護政策が取られるため、その有りようにはかなりのバラつきが見られます。
前述のミシガン州でもそうですが、特定の地域の個体のみ減少傾向にあると言った方が正確です。
万単位で生き残っている場合は別なのですが、いざ数が減ってしまうと性成熟に10数年、そして1~2頭しか年に出産できないヘラジカはあっという間にその姿を消してしまいます。
更に生息地では自動車による衝突死も後を絶ちません。
ヘラジカは余りにも大きいので瞬時に身をひるがえすことは不可能です。
生息地では道路を横断しているヘラジカが車にはねられる例が続いています。
中国・ロシアなどの保護状況は不明な点が多いのですが、EU諸国、特に北欧三国やフィンランドでは狩猟を極端に制限しています。
現状、ヘラジカはその種を保つための十分な個体数を維持しています。
しかし「リョコウバト」など何億匹から絶滅に至った、その様な例もあるほど人間の手による狩猟は激しいものです。
ICUNの基準もあくまで人間目線のものでしかありません。
個体数が十分すぎる今だからこそ、積極的な保護・関心を向けるべきとも言えます。
まとめ
今回は「ヘラジカ」の生息状況・保全状況などについてまとめてみました。
実は今現在、日本国内のどの動物園でもヘラジカは飼育されていません。
口蹄疫・BSEいわゆる狂牛病などの危険性があり、国家間の輸出入は激しい規制がかかっているのです。
裏を返せば伝染病などで個体数を減らす可能性もあるということです。
数が多い野生動物は、その保護から外れがちになる傾向があります。
これからの時代はワシントン条約やIUCNに依存せず、全ての野生生物を丁寧に保護していく姿勢が必要になるのではないでしょうか。