タヒチシギとは
タヒチシギはチドリ目シギ科に属する鳥類の1種で、絶滅種となっています。
身体の大きさは15㎝程度で小さく、羽毛は茶色です。
かつて、タヒチシギは南太平洋フランス領ソシエテ諸島のタヒチ島に生息していました。
1777年以降の目撃情報はなく、現在においては一体の標本だけです。
タヒチシギについて興味深いことは、この鳥が滅ぼされた原因はヨーロッパ人の影響も関係していますが、直接的影響を与えたのはブタないし、イノシシであったことです。
この記事では、タヒチシギについて詳しく解説した上で、現在におけるこの鳥の生き残りの可能性に関しても探っていきます。
属性
チドリ目シギ科に属する鳥類の1種です。
タヒチシギは1700年代に絶滅した鳥であるために、この鳥に関する情報は極限られています。
そのため、シギ科の属性を参考にして、この鳥について考察を巡らすことも一つの手であるといえます。
シギ科の鳥たちの多くは長いくちばしを土や砂のなかに入れて昆虫や甲殻類を食べていました。そのため、あたたかい地方で暮らすことを好んでいました。
体長
全長15cm程の大きさです。
特徴
体色は頭、背中、翼は褐色で、顎や腹は山吹色をしています。
タヒチシギは賢い鳥として見做せます。外敵が卵に接近すると擬傷と呼ばれる行動によって、雛や卵を守りました。
擬傷とは親鳥が飛べないふりをすることで、外敵を巣から引き離すことをいいます。
その小さな身体や、力の無さを補うかのように、頭脳明晰であったといえるのではないでしょうか。
食べ物
タヒチシギは昆虫、貝、カニ、ボウフラなどを食べていたのではないかと考えられます。
水辺で生息していたため、陸地に生息するいきもののみならず、水中に生息しているいきものを捕って食べることもありました。
生息地
南太平洋フランス領ソシエテ諸島のタヒチ島にタヒチシギは生息していました。
この鳥にとってお気に入りの場所は山地の渓流でした。それは、水辺に巣をつくる性質にも関係しています。
タヒチ島は美しい海に囲まれており、この島は自然が豊かです。タヒチ島は地上の楽園とも言い表すことができ、19世紀後半に画家のポール・ゴーギャンが文明化したフランスに疲弊し、タヒチに移り住んだ場所としても知られています。
現在においてもタヒチ島は「鳥の楽園」として知られています。多種多様な鳥たちが生息するこの島には、タヒチの固有種や珍しい鳥たちも多く存在しています。絶滅危惧種といわれているタヒチヒタキも、この島において保護されています。
卵
タヒチシギは水辺に卵を産みました。
この鳥の卵は小石に似ており、小石と見分けはつきませんでした。
卵を小石のようなかたちにすることで、敵から卵を守ることにつながったのです。しかし、タヒチシギが絶滅した理由には、この後みていくように、卵が大きく関係しています。
タヒチシギが絶滅した原因
1777年以降にタヒチシギを見たという報告はされておらず、絶滅した鳥として見做されています。
この鳥が絶滅した原因となったのは、ヨーロッパ人ないし、ブタとイノシシです。
ポリネシア系民族がタヒチ島には古くから住んでいましたが、かれらはタヒチシギを知っていたものの、この鳥を捕獲することはありませんでした。
現在の研究では、ポリネシア系民族がタヒチシギに悪影響を及ぼしたことはなかったと考えられています。
タヒチシギが滅びた原因にはヨーロッパ人の影響を間接的に受けています。
ヨーロッパ人もポリネシア人と同様に、この小さな鳥を捕獲することはほとんどありませんでした。彼らはタヒチシギを食糖の一つとして見做すこともなかったようです。
タヒチシギを直接的に滅ぼしたのは、ヨーロッパ人がタヒチに連れて来たブタだったのです。
1769年、イギリスの海軍士官、海洋探検家、海図製作者であるキャプテン・クックがタヒチ島を訪れる前は、この島にはブタやイノシシは生息していませんでした。
クック率いる一団はタヒチ島にブタを連れてきました。当時の探検家たちは入植地にたどりつくと、ブタやヤギを放して野生化させ、食料とすることを主流としていたのです。
キャプテン・クックが放ったブタや、ブタの野生化から生まれたイノシシによって、タヒチシギは襲われ、絶滅に追い込まれました。
これらの動物たちはタヒチシギの卵を奪いとったのです。タヒチシギは水辺に巣をつくっていたため、ブタやイノシシにとって卵の獲得は楽でした。
その結果として、タヒチシギは子孫を残せなくなってしまい、絶滅してしまいました。
タヒチシギの生き残りの可能性
1777年以降に目撃情報はなく、絶滅したと考えられています。
また、タヒチシギに類似した鳥や、タヒチシギであると考えられる鳥の目撃情報も同様にありません。
タヒチシギの標本
1773年と1777年に標本が採集されましたが、現在は1体だけ残っています。